●1972年10月愛川欣也司会フジテレビ「リブ・ヤング!」のロキシー・パーティー(ロキシー・ファッション?)特集に出演し、一躍脚光を浴びたキャロルだが、内田裕也はキャロルのリハーサルを見てプロデューサー役を申し出ていた。ところが本番終了後、ミッキー・カーチスからも連絡が入り、キャロルはミッキー・カーチスを選択する。
ジョニー大倉の著書「キャロル夜明け前」によると、矢沢永吉がミッキー・カーチスを選択した理由は、内田裕也よりもミッキー・カーチスの方がレコードデビューまでの話がより具体的だったからという。
そして矢沢永吉は、内田裕也の元に行き土下座をして詫びた。(※実際には丁寧に詫びたという所が、誇張されて伝わっているようでもあります…。)
だが、永ちゃん、キャロルにとってこの選択はレコード会社と著しく不利益な契約を結ぶ事になるものだった。
ようやく掴んだチャンスに永ちゃんも必死だったのだろうが、この失敗が後の矢沢永吉の成りあがりにおける大きな原動力ともなるのだ。
矢沢永吉と内田裕也はその後、郡山の「ワンステップフェスティバル」にキャロルが出演する際の出演条件などでもめた。(※ヘリコプターで登場したいという矢沢永吉の無茶なリクエストなどがあったらしい。)
ちなみにデビューまもない頃のキャロルのドラマーは相原誠。後にダウンタウン・ブギウギ・バンドのドラマーとして復帰する。 |